はてなインターネット文学賞「記憶に残っている、あの日」ーー子供が生まれた
★はてなインターネット文学賞「記憶に残っている、あの日」に応募します
子供が生まれた日
私は29歳の会社員だ。私の人生で記憶に残っている日を思い出すと、やはり月並みだけど子供が生まれた日だと思う。今は生まれた子も2歳になり、四六時中イヤイヤし散らかしてこちらが仏になりそうな勢いだ。そんな子供が生まれたときのことを書いてみる。
出産の思い出
2019/3
妊娠が分かってから、基本的に健康で仕事も休むことなく続け、予定日2か月前から休みに入った。基本的に健康だったが、妊娠後期の体重増加が唯一にして最大の懸念点だった。毎日サラダチキンを食べていた。
それでもブクブク太り、空気にカロリーがあるというこの世の心理に気付いたのはこのときだった。散歩もむなしく結局+15kgくらい太った。
3月に入ると花粉症が猛威を振るうようになった。
薬もあまり飲めないので、花粉にに泣きつつも体重増加に抗うように狂ったように散歩した。マジで8kmとか一日で歩いていた。部活か。
3/11
前日ずっと胎動が弱くて心配になり急遽受診するも元気いっぱいで杞憂に終わる。
3/14@37w1d
検診。内診して予定日くらいになると言われる。余裕綽綽。
ちなみに無痛分娩ができる産院だったので、無痛分娩にしようと思っていた。
先生がいるときであれば、とりあえず通常分娩で申し込んでおいて、痛みに耐えられないとなればその場で無痛分娩に切り替えられるとのことだった。
そう、麻酔ができる先生がいれば。
無痛分娩は費用も追加でかかるし、私もできるだけ通常分娩でこうと思っていた。
3/22@38w2d
検診。子宮口いくらかあいてて赤子の頭も下がってると言われ何か焦る。
3/27@39w0d
おしるし(らしきもの)?以降出続ける。
夜になると前駆陣痛と思われる痛みがあって寝不足。
3/28
検診。尿蛋白+、血圧高くて4日後に再度検診と言われる。そのときに数値が変わらなければすぐ生んでもらうと言われビビる。
先週まで何も言われなかったのに・・・。散歩の鬼になっていたのが原因なのか?
相変わらず一日中前駆があって全然寝れない。
3/30@39w3d
前駆陣痛パーリーナイトで、夜10分間隔の陣痛あった。一睡もできず、これはもう前駆陣痛ではなく通常の陣痛なのではと思ったが、7時頃には遠のいたので前駆と判断。良かった。
とりあえず病院に電話するも当然様子見。寝て体力付けてと言われる。不定期に痛みがあるので寝れないが。
‐12:30
入院前にインドカレーが食べたいと思った私は、病院に電話したあと粉からナンを作り始める。夫も一緒にこねる。
無事に焼きあがった手作りナンでインドパーティーしてるとき病院から電話あり、尿検査結果が悪いため今から来て入院と言われる。
いよいよかと思う。スマホが赤く見えた(赤紙的な意味で)。
インドカレーパーティーのときは痛みも少なく全然元気だったので、出発前アイス食べようとしたが夫に「遠足じゃねえぞ」と止められたので食べられず。後に後悔。
病院へ
車を持っていなかったので、今まで産院には電車で通院していた。
痛みもあまりないし、今回も電車で入院しに行こうとスマホの乗り換え案内を見ていると「遠足じゃねえぞ」と止められ、タクシーで病院に行くことになる。
病院に着き、追加料金払って個室を選ぶ。
痛みも引いており、「ゆっくり寝かせてくれるための入院だねーハハハ」なんて話ながら、夫は一旦帰る。
本当に前駆で寝れてなかったから、これから出産までの数日は昼寝もしてゆっくり寝れると喜ぶ。甘すぎワロリンティーヌ。
‐18:00
産休に入りスマホにかじりついて出産レポを読み散らかしていた私は分かっていた。
産院の楽しみは豪華な食事だと・・・。
他の人の写真をおかずにサラダチキンを食べていた私、楽しみにしてた食事はなんと高血圧仕様の減塩食であっさりめ。量も少ない。ちょい萎え。デザート欲しい。
アイスを食べておけばよかったと激しく後悔。
実は食事中にちょいちょい痛みがあり、途中前駆が来ると一旦箸置いてうずくまるがほぼ完食。
忘れもしなけれど、このときNHKで皇室特集みたいな番組がやっていて、それを見ながら痛みに耐えていた。
ロイヤルな陣痛だなどとよく分からないことを考えていた。
私はライトにロイヤルファミリーのファンなので、PVを見ているような気分で頑張れた。
-22:00
寝ようとするが痛みが定期的に来て寝れない。やばいマジで生まれるのか。
3/31
-2:00
空腹に我慢できずナースコール。
「前駆だと思うけど(請願)、定期的に痛みが来てずっと寝れないからお腹減った。病院食以外禁止と言われたが持参したお菓子食べていいですか」と聞く。
そう、お菓子を買い込んで私は病院に持ち込んでいたのだ。
陣痛に耐えるためと、産後の自分へのご褒美として。
NST付けてお菓子1個だけ許可され歓喜。
そしてこれが前駆でなく本陣痛だったようで、もう寝るの諦めた。
‐4:00
点滴してLDRへ移動。もう間隔測るのやめた。生理痛×50倍くらいの痛みでまだ余裕あり。確かこの時点で開大6cm。血圧計付ける。夫呼ぶ。
‐630頃
夫到着。
‐730頃
陣痛間隔短縮、痛み強まり始める。痛いときに腰をさすってもらい始める。
朝食が来ると言われていたので、それ食べて頑張ろうと思うも何故か来なくて萎える。
今思えば朝食来なかった分、深夜のビスコ1袋がなければエネルギー足りず産めなかった気がする。
‐815頃
血圧どんどん上がるので、血圧抑制剤投与、心電図開始。
トイレに移動するだけでも血圧上がるので導尿処置。夫の前で屈辱。
-845頃
開大7㎝。全然進んでない。
-1000頃
7㎝から開かないので、陣痛強くするため人工破水するか自然にまだ待つか聞かれ、人工破水してもらう。
この頃から助産師付きっ切りに。ボール圧迫開始、開大7.5㎝。
そこそこ痛いので無痛分娩に切り替えようと思うも、麻酔できる先生が今日だけ不在なので切り替えができないとのことで絶望する。
死刑宣告である。無痛分娩を考えている皆さんは、麻酔医が常駐している産院を選んでね(重要)。
-1100頃
ずっと無言で耐えてたため、助産師に(励ましかもしれないが)「静かだね」「痛みに強いね」と言われる。痛みといきみ逃しは全然まだできてた。
というか体力使いたくなかった。前日も前駆で寝れてなくて2日起きてて朝食も何故かもらえず、使う体力がなかった。
逆に「もっと声出していいよ」と言われる。各種出産レポ読んで、声出さないのがいいと思ってたから拍子抜け。
徐々に痛くなり流石にうなり声が出始め、体位も左右に数回変更。
-1130頃
血圧どんどん上がりアラーム鳴りっぱなし。すげえ、コードブルーか?(余裕か)
ヘルプ症候群の恐れを説明され(コードブルーどころじゃなかった)、血圧抑制剤徐々に増量。
‐1200頃
やっとこ血圧一服感。
この頃から我を失い始める。スタッフさんに敬語が使えなくなったのもこの辺から。
助「ボール圧迫ご主人に頼んでいい?」
私「やだ!!あっ来る!押してえ〜〜うーーーーーん」
助産師さんごめんなさい。産後謝った。
9㎝からあとちょっと開かず、陣痛促進剤の説明されるが「どうでもいい好きにして」と言い放ち投与開始。
痛みが増す。
今思えば、本当に体力がないまま分娩になったので痛みよりいきむのが嫌でつらかった。力いるから。
助産師に「いきみたいでしょ?いきんでいいよ」と言われるも、
内心「えっやだ」って思う。痛いし体力いるんでけっこうですって心境。
しかしこれでは終わらんので仕方なくいきみ開始。
-1230頃
う~~~~~んと言っていきんでる感を出すも、こんな片手間のいきみではもちろん出てこず「もっと頑張れ」と言われる。
しかし体力残ってなくて両足がぷるぷるし始める。陣痛の間は気を失う。
助産師に「次の陣痛で長くいきむよ」と何度か言われるが力入らず「あー無理」って言う。こんなやり取りを何度か繰り返す。
陣痛の間たまに冷静になってた私は
「こうやっていきむ体力ありませんアピールをすれば吸引してくれるんでは」とか姑息な考えを思い付いていた。
痛いのは我慢できるんでとにかくいきむのが嫌だった。まあ甘かった。
何度目かで吸引してくれないと悟り、ちゃんといきもうと思い直す。
後でこの考えを夫に話すと「なんちゅう現代っ子」と言われる。
-1314
真面目にいきみ始めてからは流石に叫んだ。「痛いよー!」って叫びと共に出産。
痛いと言いたくなかった私は多分最後しか言わなかった。
でも後処理では痛い言いまくった。おまた縫ってくれる先生に
「麻酔効いてる気がしないんですけど!痛いんですけど!」と怒るも「中縫ってるからね」と冷静に返事される。
夫は立ち会ってくれてたけど、やっぱり私は静かに痛みに耐えたいタイプで、
寄り添う夫の手を振り払ってしまったりした。
ごめん夫。夫は赤ちゃん見て泣いてた。
出産も、感動よりもやっと終わった…って思うタイプだった。感動で泣く力もなく精魂使い果たした。
まとめ
以上が私の出産レポです。生まれてからは今まであっという間に過ぎてきた。楽しいことも苦しいこともたくさんあった。でも、月並みだけど子供に会えて良かったと思う。
この出産レポは、私が当時スマホのメモに書き溜めていた記録をもとに書いたもので、かなり鮮明な記録だと思う。
でも1つだけ忘れてしまったことがある。どうしても思い出せないことがあるのだ。恐ろしいことにそれは、出産の痛みである。
はてなインターネット文学賞「わたしとインターネット」ーー漫画と性と
★はてなインターネット文学賞「わたしとインターネット」に参加します。
わたしとインターネットとの出会い
私は今年30歳になる会社員だ。「わたしとインターネット」と聞いて思い出されたのは、インターネットとの出会いである。私が本格的にインターネットと出会ったのは中学1年生のころ、初めて携帯電話を持ったとき。当時はガラケーだった。
本当の本当の出会いは、たぶん小学校の情報の授業でパソコン教室でヤフーきっずを教えてもらったときなのだが、それは通っている小学校の名前など決められた言葉を検索してみようというだけのものだったし、
検索エンジンがヤフーきっずなので何をしてもフィルタリングされた「キレイ」な情報しか目に入ってこなかった。なので、本当の意味での私とインターネットとの出会いは初めて携帯電話を持ったときだと言える。
こんな世界があったのか
ガラケーを持って最初は電話とメールくらいしかしていなかったけれど、当時仲が良かった友達の影響でインターネットをしたいと思うようになった。というのは、私は当時漫画やアニメが好きで、その友達とはいつもその話題で盛り上がっていた。でも友達は私よりもキャラの情報に詳しかったり、かっこいいキャラのイラストをよく私に見せてくれた。
すごいね、どうしたの?と聞くと、インターネットで見れるよと友達が教えてくれた。その友達は家にパソコンがあり、いつもそこで色々閲覧しているようだった。つまりファンアートなどを掲載する個人ホームページなどを、その友達はパソコンで閲覧していたという訳である。
それを聞いた私は自分も見てみたいと思い、家にパソコンがなかった私は親にお願いしてパケットし放題プランのようなものに加入した。これで友達が見せてくれたようなかっこいいキャラの画像が見られると思った。忘れもしない、私が生まれて初めて「ググった」のは、当時の押しキャラの名前だった。ここで私の人生が大げさではなく変わったと思う。
ググった私は衝撃を受けた。検索結果にはキャラの公式画像、ホームページ、ちょっと検索結果ページを遷移すればファンアートのホームページがたくさんあった。私は夢中でたくさんのページを閲覧した。
こんなにキャラを大好きで、漫画だって何度も何度も読んで作品への知識は日本一なのではとドヤっていたけれど、インターネットで検索するだけで一瞬でその自信は打ち砕かれた。私はそのキャラの身長すら知らなかった、と分かったのだから。
果てしない海へ
インターネットの世界は深く深く、果てしないものだった。キャラの名前でググるとたくさんの検索結果が表示され、見ても見ても終わることはなかった。知らない知識をたくさん知ることができた。ファンアートもたくさん見て、好きな作者さんも見つけたこれらに触発されて私も絵をかいたりするようになった。そうして知ったニッチな知識を、同じく漫画好きの友達を語り合うのは楽しいものだった。
しかし、インターネットで知った知識は友達と語り合えるものばかりではなかった。親はもちろん友達にも話したことはないが、性に関する知識の多くをこのころにインターネットで学んだのだ。
思春期とは言え、女子ということもあり私はまだあまり性に関して興味がなかった。でもインターネット環境を手に入れたことで変わっていった。触りはファンアートだった。押しキャラのファンアートを見ていたら、かなり性的なものが目に入った。今思えば、あれは男性向けのファンアートだったと思う。当時は今のように親が子供の携帯をフィルタリングして・・・という時代でもなかったので、何でも見ることができた。
詳しいことは分からないけれど、キャラが性的なことをしているのだけは中一の女子ながら感じ取ることができた。よく分からないけれど、見ていると体が熱く、恥ずかしい気持ちになった。すぐに閉じた。ドキドキした。今までたくさん漫画について語り合った友達にも、こういうのは言ってはいけないものだと直感で思った。これは私の中で押しとどめなければならないものだと確信した。
ページを閉じたもののやはりでも気になって、また閲覧した。そこから毎日色々検索し、今思えば間違っていた知識もあったけれどそれなりの性的な知識を身に着けて行った。親にも友達にも言わず、ひっそりと。こんなに性的な知識に毎日どんどん詳しくなって行っているにもかかわらず、毎日変わらぬ顔で学校に行き、親と会話している。こんな自分は何だかすごいことをしているような気持ちになった。私はみんなと違い、大人の階段を登っているんだフフン、と思っていた。見た目は中学生、夜は検索魔というわけである。
アラサーとインターネット
今思えば上記のようなことは完全に中二病なのだが、私と同じアラサー世代、特に思春期に漫画にはまっていたような女子は、インターネットとの出会いも、そこから性的なところへの展開も私と同じような道を歩んだ人が多いのではないだろうか。ね?正直に言ってみな??ね??
このようなインターネットとの衝撃の出会いから始まり、部活個人ホムペ時代、ミクシィ時代、Facebook時代などを経てツイッターを主に利用する今に至る。インターネットと出会ってからというもの、私の人生とインターネットは切り離せないものになったのだ。きっと、これからもそう。